今は昔のよしなし心も悔しかりけり、とのみ思ひ知りはて、親の物へ率て參りなどせでやみにしも、もどかしく思ひ出でらるれば、今はひとへに豐なるいきほひになりて、二葉の人〔幼き子〕をも思ふざまに傅(かしづ)きおふしたて、我が身もみくらの山に積みあまる許にて、後の世までの事をも思はむと思ひはげみて、十一月(しもつき)の廿日餘、石山にまゐる。雪うち降りつつ道のほどさへをかしきに、逢坂の關を見るにも、昔越えしも冬ぞかしと思ひいでらるるに、その程しもいとあらう〔荒く〕吹いたり。
逢坂の關のやまかぜ吹くこゑはむかし聞きしにかはらざりけり
關寺のいかめしう造られたるを見るにも、その折、あらづくりの御(み)顔〔大佛の〕ばかり見られし折思ひ出でられて、年月の過ぎにけるもいと哀なり。打出の濱のほどなど見しにもかはらず、暮れかゝる程にまうで著きて、湯屋におりて御堂に上るに、人聲もせず。山風おそろしう覺えて、行ひさして、うちまどろみたる夢に、「中堂より御かう〔佛の來迎か〕賜はりぬ。疾くかしこへ告げよ」といふ人あるに、うち驚きたれば、夢なりけり、と思ふに、よき事ならむかしと思ひて行ひあかす。又の日もいみじく雪ふり荒れて、宮にかたらひ聞ゆる人の具し給へると物語して、心ぼそさを慰む、三日さぶらひてまかンでぬ。