更級日記 - 42 そのかへる年の十月廿五日

そのかへる年の十月廿五日、大嘗會の御禊とのゝしるに、初瀬の精進はじめて、その日京を出づるに、さるべき人々、「一代に一度の見物にて、田舍世界の人だに見るものを、月日おほかり。その日しも、京をふり出でて往かむも、いと物ぐるほしく、ながれての〔後世の〕物語ともなりぬべき事なり」など、兄弟(はらから)なる人はいひ腹立てど、兒どもの親なる人は、いかにいかに、心にこそあらめとて、いふに隨ひて、出したつる心ばへもあはれなり。ともに行く人々も、いといみじく物ゆかしげなるはいとほしけれど、物見て何にかはせむ。斯る折にまうでむ志をさりとも覺しなむ。かならず佛の御(おん)驗を見むと思ひ立ちて、その曉に京と出づるに、二條の大路をしも渡りて往くに、先にみあかし〔燈明〕もたせ、供の人々淨衣姿なるを、そこら棧敷どもに移るとて、いきちがふ馬も車もかち人もあれば、なぞ事やすからず言ひ驚き、あざみ笑ひあざける者どももあり。良頼の兵衞督と申しゝ人の家のまへを過ぐれば、それ棧敷へわたり給ふなるべし。門ひろうおし開けて、人々立てるが、「あれは物まうで人なンめりな。月日しもこそ世に多かめれ」と笑ふ中に、いかなる心ある人にか、「一時(とき)が目をこやして何にかはせむ。いみじくおぼし立ちて、佛の御(おん)徳、かならず見給ふべき人にこそあンめれ。よしなしかし。物見でかうこそ思ひたつべかりけれ」とまめやかにいふ人ひとりぞある。道、顯證(けんぞう)ならぬさき〔夜のあけぬ中〕に、と夜ふかう出でしかば、立ち後れたる人々も待ち、いとおそろしう深き霧をも少しはるけむとて、法性寺(ほうしゃうじ)の大門(だいもん)にたち止りたるに、田舍より物見にのぼる者どもの、水の流るゝやうにぞ見ゆるや。すべて道もさりあへず、物の心知りげもなきあやしの童〔賤しき童兒〕まで、ひきよげて行き過ぐるを、車を驚きあざみたる事限なし。これらを見るに、實にいかに出で立ちし道なりともと覺ゆれど、ひたぶるに佛を念じ奉りて、宇治のわたりにいき著きぬ。そこにも猶しも、此方ざまに渡りする者ども立ちこえたれば、舟の楫とりたる男ども、船をまつ人の數も知らぬに、心おごりしたる氣色にて、袖をかいまくりて、顔にあてて棹に押しかゝりて、頓に舟も寄せず、うそぶいて見まはし、いといみじうすみたる〔沈着なる〕樣なり。むごに〔いつまで〕え渡らで、つくと見るに、紫の物語〔源氏物語〕に、宇治宮のむすめどもの事あるを、いかなる所なれば、そこにしも住ませたるならむ、とゆかしく思ひし所ぞかし。實にをかしき所かな、と思ひつゝ、辛うじて渡りて、殿のさぶらふ所の、宇治殿を入りて見るにも、浮舟の女君(をうなぎみ)の、かゝる所にやありけむなど、まづ思ひ出でらる。夜ふかく出でしかば、人々困じてや、ひろうちといふ所にとゞまりて、物食ひなどする程にしも、供なるものども、「高名の栗駒山〔源氏物語椎が本にあり、大和物語に「くりこまの山に朝たつ雉よりも云々」とあり〕にはあらずや。日も暮方になりぬめり。ぬしたち、調度とりおはさうぜよや」と言ふを、いと物おそろしう聞く。その山越え果てて、にへの池の邊へ行き著きたる程、日は山の端にかゝりにたり。いまは宿とれて〔「とれとて」歟〕、人々あかれて〔分れて〕宿もとむる。「所はしたにて、いとあやしげなる下種(げす)の小家なむある」といふに、如何はせむとて、そこに宿りぬ。みな人々京にまかりぬとて、あやしの男二人ぞ居たる。その夜もいも寢ず。此男のいで入りしありくを、奧の方なる女ども、「など斯くしありかるゝぞ」と問ふなれば、「いなや、心も知らぬ人を宿(やど)し奉りて、釜ばしもひきぬかれ〔盜まれ〕なば、如何にすべきぞと思ひて、え寢(ね)でまはりありくぞかし」と寢たると思ひていふ。聞くに、いとむくしく〔厭はしく〕をかし。翌朝、そこを立ちて、東大寺によりて拜み奉る。いそのかみも誠にふりにける事想ひやられて、無下に荒れ果てにけり。その夜、山邊といふ所の寺にやどりて、いと苦しけれど、經すこし讀み奉りてうちやすみたる夢に、いみじくやむごとなく清らなる女のおはするに參りたれば、風いみじう吹く。見つけてうち笑みて、「何しにおはしつるぞ」と問ひ給へば、「いかでかは參らざらむ」と申せば、「其處(そこ)はうちにこそ〔禁中で〕あらむとすれ。はかせの命婦をこそよく語らはめ。」と宣ふと思ひて、嬉しくたのもしくて、いよ念じ奉りて、初瀬川などうち過ぎて、その夜御寺〔初瀬寺〕にまうで著きぬ。祓などしてのぼる。三日さぶらひて、曉まかでむとて打ちねぶりたるよさり、御堂のかたより、「すは稻荷よりたまはるしるしの杉〔「稻荷山しるしの杉を尋ね來てあまねく人のかざす今日かな」顯仲の詠〕よ」とて、物を投げ出づるやうにするに、うち驚きたれば夢なりけり。曉夜ぶかく出でてえとまらねば、奈良坂のこなたなる家を尋ねて宿りぬ。これもいみじげなる小家なり。「ここはけしきある所なンめり。ゆめ寢ぬな、靈怪(りゃうくゎい)の事あらむに、あなかしこ、おびえさわがせ給ふな、息もせで臥させ給へ」といふを聞くにも、いといみじう、侘しくおそろしうて、夜を明すほど、千歳を過す心地す。辛うじて明けたつほどに見れば、盜人の家なり。「あるじの女、けしきある事〔寢をまちて盜まむ氣色〕をしてなむありける」といふ。いみじう風の吹く日、宇治のわたりを過ぐるに、網代いと近うこぎよりたり。
音にのみ聞きわたり來し宇治川のあじろの浪もけふぞかぞふる

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