更級日記 - 20 花の咲き散る折毎に

花の咲き散る折毎に、乳母なくなりし折ぞかし、とのみ哀なるに、おなじ折なくなり給ひし、侍從大納言の御(おん)女の書(ふみ)を見つゝすゞろに哀なるに、五月(さつき)ばかり夜ふくるまで、物語を讀みておき居たれば、來つらむ方も見えぬに、猫のいと長う啼いたるを、驚きて見れば、いみじうをかしげなる猫あり。いづくより來つる猫ぞと見るに、姉なる人、「あなかま〔禁止の詞〕、人に聞かすな。いとをかしげなる猫なり、かはむ」とあるに、いみじう人馴れつゝ傍にうち臥したり。尋ぬる人やある、とこれを隱してかふに、凡て下衆のあたりにも寄らず、つと前にのみありて、物もきたなげなるは、ほかざまに顔をむけてくはず。姉弟(おとゝ)の中に、つとまとはれて、をかしがりらうたげなる程に、姉の惱む事あるに、物さわがしくて、この猫を北面(きたおもて)にのみあらせて、呼ばねば、かしがましく啼きのゝしれども、猶さるにてこそは、と思ひてあるに、わづらふ姉おどろきて、「いづら、猫はこちゐてことあるを」など問へば、夢にこの猫の側に來て、「己は、侍從大納言殿の御女のかくなりたるなり。さるべき縁のいさゝかありて、この中の君の、すゞろに哀とおもひ出で給へば、たゞ暫(しばし)こゝにあるを、このごろ下衆の中にありて、いみじうわびしき事」といひて、いみじう泣くさまは、あてに〔貴く〕をかしげなる人と見えて、うち驚きたれば、この猫の聲にてありつるが、いみじく哀なり。その後は、この猫を北面にも出さず、思ひかしづく。唯ひとり居たる所に、この猫がむかひ居たれば、掻い撫でつゝ、「侍從大納言の姫君のおはするな。大納言殿に、知らせ奉らばや」と言ひかくれば、顔をうちまもりつゝ、長う啼くも心の思なし、目のうちつけに、例の猫にはあらず、聞き知り顔にあはれなり。


更級日記 - 21 世の中に長恨歌といふ文を