そのかへる年〔治安三年〕、四月(うづき)の夜半(よなか)ばかりに火の事ありて、大納言殿の姫君と思ひかしづきし猫も燒けぬ。大納言殿の姫君と呼びしかば、聞き知り顔に泣きて、歩み來などせしかば、父なりし人も、「めづらかに哀なることなり。大納言に申さむ」などありし程に、いみじうあはれに口惜しく覺ゆ。ひろびろと物ふかき深山のやうにはありながら、花紅葉のをりは、四方の山邊も何ならぬを見ならひたるに、たとしへなく狹(せば)き所の庭の、ほどもなく木などもなきにいと心憂きに、向ひなる所に、梅の紅梅など咲き亂れて、風につけて薫り來るにつけても、住み馴れし古郷かぎりなく思ひ出でらる。
にほひ來るとなりの風を身にしめてありし軒端の梅ぞこひしき



