更級日記 - 31 かうで徒然とながむるに

かうで徒然とながむるに、など物まうでもせざりけむ。母いみじかりし古代の人にて、「初瀬にはあなおそろし、奈良坂にて人にとられなば如何せむ。石山、關山越えていとおそろし。鞍馬は、さる山ゐて出でむいとおそろしや。親のぼりて兎も角も」と、さしはなちたる人のやうに煩はしがりて、僅に清水にゐて籠りたり。それにも例のくせは、まことしかンべい事もおもひ申されず、彼岸のほどにて、いみじう騒しう、おそろしきまで覺えて、うちまどろみ入りたるに、御帳(みちゃう)のかたの犬防(いぬふせぎ)〔佛壇の前なる格子〕の中(うち)に、あをき織物の衣を著て、錦を頭(かしら)にもかづき、足にもはいたる僧の別當とおぼしきが寄り來て、行先のあはれならむも知らず。さもよしなし事をのみとうちむづかりて、御帳の内に入りぬと見ても、うち驚きても、かくなむ見えつるとも語らず、心に思ひとゞめてまかでぬ。


更級日記 - 32 幅一尺の鏡を鑄させて