更級日記 - 32 幅一尺の鏡を鑄させて

幅一尺の鏡を鑄させて、え率て參らせぬかはりにとて、僧をいだしたてて、初瀬に詣でさすめり。三日さぶらひて、この人〔孝標の女をさす〕のあンべからむ樣〔未來の有樣〕、夢に見せ給へなどいひて、詣でさするなンめり。そのほどは精進(さうじん)せさす。この僧かへりて、「夢をだに見でまかでなむが、本意なき事、いかゞ歸りても申すべきといみじう額づき行ひて、寢たりしかば、御帳の方よりいみじうけだかう清げにおはする女の、麗しうさうぞき給へるが、奉りし鏡をひきさげて、「この鏡には、文やそひたりし」と問ひ給へば、かしこまりて、「文(ふみ)もさぶらはざりき。この鏡をなむ奉れと侍りし」と答(こた)へ奉れば、「あやしかりける事かな。文そふべきものを」とて、「この鏡を、こなたに移れる影を見よ。これを見れば、あはれに悲しきぞ」とて、さめと泣き給ふを見れば、ふしまろび泣き歎きたる影うつれり。『この影を見れば、いみじうかなしな。これ見よ』とて、今かたつ方に移れる影を見せ給へば、御簾ども青やかに、几帳おし出でたる下より、いろの衣こぼれ出でて、梅櫻咲きたるに、鶯木づたひ鳴きたるを見せて、『これを見るは嬉し』など、宣ふとなむ見えし」と語るなり。いかに見えけるぞとだに耳もとゞめず、ものはかなき心にも、つねに天照大神を念じ申せといふ人あり。いづくにおはします神佛にかはなど、さはいへど、やう思ひわかれて、人に問へば、「神におはします。伊勢におはします。紀の國に、きのこくそうと申すは、この御(おん)神なり。さては内侍所に皇神(すべらがみ)となむおはします(*ママ)」といふ。伊勢國までは、思ひかくべきにもあらざンなり。内侍所にもいかでかは參り拜み奉らむ。空の光を念じ申すべきにこそはなど、うきて覺ゆ。親族(しぞく)なる人尼になりて、修學院(すがくゐん)に入りぬるに、冬の比、
なみださへ降りはへつつぞ思ひやるあらし吹くらむ冬のやま里
かへし、
わけて問ふ心のほどの見ゆるかな木かげをぐらき夏のしげりを

更級日記 - 33 東にくだりし親