その翌朝(つとめて)そこを立ちて、下總と武藏の境にて、あすだ川〔隅田川の古名〕といふ、在五中將〔在原業平〕の、いざこと問はむと詠みける渡なり。中將の集には隅田川とあり。かゞみのせ、まつさとの渡(わたり)の津にとまりて、夜一夜、舟にてかず〳〵物などわたす。乳母なる人は、男などもなくなして〔乳母の夫うせて〕、さかひにて子産みたりしかば、離れて別(べち)にのぼる。いと戀しければ往かまほしく思ふに、兄(せうと)なる人〔和泉守定義〕抱きゐて往きたり。皆人はかりそめの假屋などいへど、風すさまじく引綿〔綿を引被ること歟〕などもしなどしたるに、これは男〔乳母の夫〕なども添はねば、いと手ばなちにあら〳〵しげに、苫といふものを一重うち葺きたれば、月のこりなくさし入りたるに、紅(くれなゐ)の衣うへに著て、うちなやみて臥したる。月影さやうの人にはこよなく透きて、いと白く清げにて珍しと思ひて、かき撫でつゝうち泣くを、いとあはれに見捨てがたく思へど、いそぎ出で別るゝ心地、いと飽かずわりなし。俤(おもかげ)に覺えて悲しければ、月の興も覺えず屈(くん)じ臥しぬ。つとめて舟に車かき据ゑて渡して、あなたの岸に車ひき立てて、送りに來つる人々、これより皆かへりぬ。のぼるは〔都に上る人は〕宿(とまり)などしていき別るゝ程、行くも留るも皆泣きなどす。をさな心地にもあはれに見ゆ。